いずれは人参

【いずれは人参】〜人生「初」の仕事〜 二代目跡継ぎ失敗談。

 

 

人生「初」の仕事。

 

話は「おれ」が14歳の頃まで遡る。

当時「おやじ」は「古紙回収業」を自営していた。いわゆる「チリ紙交換」というやつだ。2tのトラックで住宅地を周り、手を挙げたお宅に行って古新聞や古雑誌を回収。その量に応じてトイレットペーパーを渡すアレだ。今では全く見なくなったが、昔は土・日になると朝から「まいどおなじみ~ チリ紙交換車で~ ございま~す」と、街宣車のような大きな声が聞こえたものだ。

16歳の時はもう手伝う事はなかったが、「おれ」が小学生だったころは休みの日に手伝いに行く事がよくあった。まぁ、手伝いと言っても回収する古雑誌の中には結構「漫画(単行本)」や「雑誌(少年ジャンプ等)」があるため、それ読みたさに同行してただけではあるが。

さて、話を戻すが、当時は「古紙」の値段が比較的高く、古紙回収業は結構稼げた。そして、稼いだ金で「おやじ」は新しい事業を始める事となった。新しい事業は夜間営業で主に「酔客」が対象。飲食店でお酒を飲んで車の運転ができなくなった人の代わりに「運転を代行」する仕事。いわゆる「運転代行業」だ。

 

当時はこの「運転代行業」を営んでいる経営者は全国的にも少なく、もちろん「おれ」が住んでいる静岡県えのかぷ市では「うち」以外他に無かった。

 

受注のスタイルは電話のみ。飲食店から依頼が入り、1台の自家用車に二人の運転手が乗り、依頼先の飲食店に向かう。そして、一人は客の車を運転。もう一人は乗っていった自家用車で客の車を追走するというシステムだ。まだ開業したばかりというのもあり、当然「専門の電話番」はいない。

「おやじ」と「おふくろ」、他「おやじが声かけた数名の知人(以下、「社員」という)」が、「おれ」達家族の住む自宅の一室で待機し、「電話が鳴ったら誰かが電話に出て、誰かと誰かが車で向かう」を、自宅に残った社員達で順番に行うのが営業のルーティン。

だから当然、依頼が重なれば全員いなくなるわけだ。そんな時は「受付の電話を留守電にして、受注を留守電で受け、1件の仕事が終わると出先の公衆電話から留守電に残されたメッセージを聞いて、次の依頼先に向かう」という仕事をしていた。

数年後には「無線」を使用した連携にシフトしていくが、当時は「留守番電話」と、「ポケットベル」を駆使して営業を行っていた。ちなみに当時のポケベルと言えばマッチ箱程度の大きさで腰ベルトに引っ掛けるタイプのもので、音がピーピーと鳴るだけ。その後メッセージを送れるタイプにシフトして今では消え去っているが、当時の運転代行業にはこのアイテムが欠かせなかった。また、全社員が仕事で外に出てしまっている時は「公衆電話」から「留守番電話のメッセージ」を聞くなど、今の世代を生きる若者には想像も付かないだろう。

さて、それも受注が増えてくると限界がある。当時の留守電は電話機本体に小さなカセットテープで録音するタイプしかなく、高機能タイプの電話でもせいぜい5件程度しか録音ができなかった。そしていよいよ、その10件を超える受注が頻発したわけだ。

そうなると「電話番」というものが欲しくなる。しかし、車の免許を持っている者は「運転手として使わないと損」という「おやじ」の方針で、ある日の週末、「たまたま」家にいた「おれ」が「とりあえず」という形で電話番をする日が来てしまった。

 

続く。

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